やってみましょう

何かをやってみようと思う、全ての人へ

救いの手

  • 思考を働かせない
  • つじつま合わせをしようとしない
  • 理性的判断をやめる

 

前回、お金のページで

”思いつかないところに答えはあります”

と書きました。

 

yatemimablog.hatenablog.com

 

 

”思いつかないところに手を伸ばす”ということです。

要は、”天に任せる”ということです。

 

これを読んだ時、

どんな気持ちが湧いてきたでしょうか。

 

怖い

ほんとにうまくいくのか不安

天て何やねん

 

そう思ったのではないでしょうか。

私もそうでした。

 

何の当てもないのです。

確証もない。

そう思うのも無理はありません。

仕方のないことです。

 

でも、

これをやると活路が見えてきます。

 

初めは怖くて仕方がなかった。

何度も疑いの気持ちを持ちました。

 

失敗したらどうしよう

今よりもっとひどい状況になったら

本当にこのやり方で正しいのか

 

恐怖心が湧いて、湧いて、湧いて。

溢れ出してきました。

止まる気配もありません。

 

やっぱり怖い、無理だ

そうして諦めて、

やっぱり自分で頑張ろう、

何とかしようと思うのです。

 

でも、苦しいから天に任せようと

言ってるのに、

天に任せるのが怖いからやっぱりやめようって、

もう何がしたいのが分かりません笑。

落ち着け!って感じですね。

 

落ち着いてはいられないのです。

だって、何とかしなきゃいけないと思ってる訳ですから。

何とかしないと、もっともっとひどいことになると思ってる訳ですから。

落ち着いてなんかいられません。

 

いきなり天に任せなくたって良いんです。

いきなり出来るなら良いでしょう。

でも出来ないのなら少しずつでも良いのです。

 

私が物事を天に任せてみようとおもったきっかけは、仕事をしている時でした。

"どうせ助けてくれないんでしょ。良いよ、1人でやるから"

そう言って、1人で黙々と作業していました。

 

すると職場の人が"これ、やっときますね"と言って、仕事の半分をやってくれました。

 

その時私は、こう思いました。

"私はなんて意地悪なんだろう"と。

 

本当は、いつだって救いの手が差し伸べられています。

信じられないかもしれません。

でも、本当のことです。

 

なぜ自分のことを意地悪だと思ったのか。

差し伸べられている救いの手に気がつかず、

”どうせ助けてくれないんでしょ”と決めつけたからです。

つまり、”助けてくれるわけがない”と思っていたわけです。

そんなはずないと。

救いの手を、ハナから疑っていたわけです。

 

転んでしまった時、

誰かが手を差し伸べてくれたのに

それをペチっと弾き返して”結構です”と言うようなものです。

私にはそういう自分の反応を、とても意地悪く感じたのです。

 

今一度、書いておきたいと思います。

本当は、いつだって救いの手が差し伸べられています。

信じられないかもしれませんが、

本当のことです。

 

何故それに気がつかないのかと言うと、

”助けてくれるわけがない”と思っているからです。

私の体験が、まさにそうでした。

 

そんな経験をした後も、しばらく疑いの気持ちは晴れませんでした。

物事はそんなにうまくいくはずがないと思っていましたから、

いつだって疑いの目を持って、注意深く生活していたわけです。

ところが、先程書いたような経験を

少しずつするようになってきました。

 

これは、良いことが起こるようになってきたわけでありません。

始めから差し伸べられていた救いの手に、

気づけるようになってきたというだけです。

 

どうやって、救いの手に気がつけるのでしょうか。

ここで登場です。

 

理性的判断をやめる

 

自分で考えて思いつく範囲に、

答えはありません。

つまり、”こうやれば救いの手に気がつける”という方法論を

使わないということです。

思考を使うのをやめましょう。

 

ならどうしたら良いんでしょうか。

天に任せるのです。

 

どうやって?

”神様、いつもありがとう”

 

これだけです。

なぜ、ありがとうと言ったのでしょうか。

 

いつだって、救いの手が差し伸べられているからです。

 

 

 

 

 

 

 

必要な時

  • 思考を働かせない
  • つじつまを合わせようとしない
  • 理性的判断を止める

 

必要な時に

必要なことが起こる。

 

これが分かっている人は

どんな心境で日々を過ごしているでしょう。

ちょっと、この先を読む前に、

思いを巡らせてみてください。

 

 

 

 


"安心"していると思います。

全てが必要な時に、

運ばれてくるわけですから。

 

Amazonでお買い物をしたとします。

到着は明日の夜19時だと言われました。

明日の夜19時に荷物が届くと分かっている人が、がくがく震えながら”どうしよう、来なかったらどうしよう、もうだめだ、終わった…"と青ざめるでしょうか。

(交通事情によっては時間通りに届かないこともあるかもしれません)

 

これと同じことを、

私もしていました。

 

本当は、

全てのことが必要な時に届いています。

そうとは思えないでしょう。

私もそうでした。

 

”明日の夜19時に頼んだものが届く"

 

私はこれを、

"知って"います。

分かっているのです。

だから、"安心"して日々を過ごしている訳です。

それが届くのを待っている訳です。

 

同じことを、

日々の生活に当てはめてみましょう。

 

必要なことは必要な時にやってくる。

私はこれを"知って"います。

分かっているのです。

だから、"安心"して日々を過ごしている訳です。

それが届くのを待っている訳です。

 

必要な時というのは、

自分の思う"その時"ではないかもしれません。

 

なぜか。

自分は、あなたの思っている自分ではないからです。

 

ここで復習しましょう。

思い出してください。

 

理性的判断を止める

 

理性的判断をしている自分。

"必要な時"を、自分なりに判断している自分です。

"自分なりに"、です。

つまり、自分で想定した"必要な時"なのです。

本当の”必要な時"ではありません。

 

自分は、あなたの思っている自分ではないのですから、

 

"ピンチだ"と、判断している自分

"どうにかしなきゃ"と判断している自分は、

あなたではないということになります。

 

必要な時に

必要なことが起こる。

 

それが分かっている人に、

ピンチもどうにかしなきゃいけない状況も、

訪れようがありません。

 

Amazonからくるお届け物を待つ人に、

ピンチもどうなかしなきゃいけないと思う気持ちも湧いてきようがありません。

 

今度 Amazon(でなくても良いですが)で

何かを頼んだら、

それが届くまでの気持ちを味わってみましょう。

 

やってみましょう。

その感覚が分かると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お金

  • 思考を働かせない
  • つじつまを合わせようとしない
  • 理性的判断を止める

 

お金はどうやって入ってくると思いますか。


お金が入ってくる方法を、

"自分なりに"10個あげてみて下さい。

今、やってみましょう。

 

 

 

 


ちょっと空白作って文字と時間を稼ぐ笑。

 

 

 

 

 

 

お伺いします。

その10個の中に、

 

"道を歩いていたら人とぶつかって、謝ったら実はその人が石油王でぶつかったお詫びに100万円くれた"

 

"片付けをしていて、ずっと着ていなかったコートが出てきてそれを畳もうとしたらポケットから50万がバサリと落ちた"

 

"5万円のパソコンが欲しいな、と思っていたらたまたま近所の商店街で福引をやっていたことに気づきくじを引いたら一等が当たりその賞金が5万円だった"

 

は入っていましたか。

 

入っていて欲しいな笑。

夢があるでしょう。

 

でも残念ながら、

私が挙げたような例は入っていないでしょう。

 

どうしてでしょうか。

“思いつかなかったから”

ではないでしょうか。

 

その、

"思いつかない"ところに答えがあります。

思いつくところに答えはありません。

 

自分の思いつく範囲=理性的判断

です。

 

"理性的判断を止める"

と言っているのは、こういう理由からです。

 

理性で考えている限り、

"理性では考えられないこと"に手を伸ばすことはできません。

 

お金が入ってくる方法を10個思いつくと

"その10個以外で入ってくる方法はないのだ"と

自分で決めているようなものです。

 

みんな、その10個の選択肢の中で行動しようと頑張るのです。

私もそうでした。

それしか方法が思いつかないからです。

仕方のないことです。

 

"何かを手に入れるのに、方法を考えない"

と、よく言われます。

 

"お金を手に入れる方法はこの10個だ"と

自分で理性的に判断しなければ、

その10個以外の選択肢が視野に入ってきます。

それが、"許可する"ということです。

 

つまりは

"お金はどんな形でも、どんな方向からでも手に入って良いんだ"と自分に許すと言うことです。

自分で理性的に判断した、その10個以外からでも入ってきてOKだと認めることです。

 

理性的判断を止めるにはどうしたら良いんでしょう。

理性判断を止める意思はあるんですけども。

方法が分からないんです。

 

聞いてみましょう。

 

"神様、本当の姿を見せてください"

 

言い方は何だって良いのです。

しっくり来るなという言い方を探してみましょう。

 

答えは返ってこなくても大丈夫。

必要な時に、現れてきます。

聞いてみましょう

  • 思考を働かせない
  • つじつまを合わせようとしない
  • 理性的判断を止める

 

こんな状況で、私に、何ができるでしょうか。
聞いてみてください。

 

"神様、ここでの必要なものを見せて下さい"

 

自分を使わないことです。

 

"どうしたら良いの?"

そう思ってるのは、自分ではありません。

"どうしたら良いの?"

 

聞いてみてください。

 

"神様、ここでの完璧な姿を見せて下さい"

 

お返事がなくても大丈夫。

 

すぐ返事来ないじゃん!

すぐ返事してよ!

こっちは急いでるんだよ!

 

"急いでいる"と思っているのは誰でしょう。

"間に合わない"と思っているのは誰でしょう。

"早く=時間がない"と思っているのは誰でしょう。

 

完璧とは何でしょう?

必要な時に、

必要なものが現れるということです。

寸分狂わず物事は起こる。

"完璧"という言葉を使うくらいですもんね。

 

"自分"にとっての"必要な時"と

完璧な世界にとっての"必要な時"は

一致しないかもしれません。

 

"自分"にとっての、必要な時。

それを判断したのは、誰なんでしょう。

"今が必要な時"なのだと、判断したのは誰なんでしょう。

 

理性的判断を止める

 

ここで復習しておきましょう。

 

 

やってみましょう

思うところがあるのでしょう。

私もそうでした。

 

だから、何か良い答えはないかと

探して、どこかにたどり着きます。

 

この場所は、そんなたどり着いた先の

一つなのでしょう。

 

何かをやってみようと思う全ての人へ、

ここに書いてあることを捧げます。

 

私も、このブログがどう進むのかは

よく分かっていません。

そんなものだろうと、思っています。